お問い合わせがある中で、このような質問をいただくこともあります。重要なことだと考えますので、ここに個人的な考えを記したいと思います。

 人間の発達段階において、自分が何者であるか、という問いへの答えは青年期、概ね20代半ばには得なければならないものです。その答えはさまざまだとは思いますが、そこに自分自身の存在の成り立ちを意識するのは人間として多くの人が求める本質的な欲求ではないでしょうか。遺伝学が成立するのは19世紀末からではありますが、ソフォクレスの戯曲「オイディプス王」のように遥か紀元前の古代ギリシャから、自分より親を知らないことは既に悲劇とされてきました。なぜか、はわかりませんが遺伝的に人間と99%は同じである高等霊長類でももたない欲求を人間は持っています。その本能的な欲求は、ルネサンス以来の人文主義という、人間が主体的な個人として生きること、そのために必要な固有の権利や自分自身についての知識もつことに価値を置く近代的発想とよく親和しているように思います。これは確かに、現代人である私にも非常によく共感できることです。


 しかし一方で、出自を知る権利というは、人がひとりでいることを尊重してほしい、というプライバシーの権利と常に表裏一体です。私の遺伝情報を半分持って生まれる方が一人の個人として出自を知る権利を有するように、私もまた一人の個人としてプライバシーの権利を持ち、二人の関係は全く平等です。そのため社会では常に葛藤があります。日本では提供者のプライバシー保護に重点があるため、診療記録は残りますが提供者は原則匿名です。無味乾燥なルールと受け止めることもできますが、日本社会全体のコンセンサスとして、そうでないと日本では様々なリスクがあるということの反映ともとらえられます。個人の活動とはいえ、日本社会で現在出ている結論から大きく外れることは難しいです。同様にドナーを匿名とする国として、カナダ、フランス、スペインがあります。一方で、ドナー情報を公開する国としてイギリス、ドイツ、オランダ、スウェーデン、ノルウェー、オーストラリア、両方を認める国としてアメリカ、デンマーク、ベルギーなどがあります。ですが公開、といっても様々で、スウェーデンでは身長、体重と髪・眼・肌の色のみ公開されますし、アメリカでは開示する際には、どういった結果になりえるかについて綿密なカウンセリングを受けたうえで、履歴と音声が公開されることが多いです。国によってまちまちです。


 これは、出自を知る、といっても一体なにを指すのか、という問いに対していまだに社会がはっきりとした答えを出せていないことが理由の一端だと考えています。極端に言えば、それが遺伝的父親の人となりを知りたい、という純粋な関心であるのか、あるいは本籍を把握した上で20年以上の歳月を経ていつでも遺伝的父親の生活に介入できるようにしたい、ということなのかで大きく違ってきます。実際に、精子ドナーから出生したお子様がドナーについてどのような知識を求めるかは異なることが知られています。


 もし後者を求めるのであれば、これはとても難しいことです。決まった環境でしか生きられない他のすべての生き物と異なり、人間はあらゆる環境に適応しそれによって非常に大きな個性を持ちます。お子様が成人した時どのような人物になられているのか、それが私自身のアイデンティティーの核心を共有することができる人物であるかは、出生時にはまだ未知数です。そして20年後には、私自身多くの人の生命や安全を預かる立場にあることかと思います。ですので、現時点では私の本名や本籍など、私自身がどこの何者であるか、どのように育って何を為し、何をしており、何をしようとしているかを全て具体的に依頼者様やお子様にはお教えすることができません。そのような意味では、プライバシーの権利は出自を知る権利に優先すると考えます。


 ですが、私の遺伝情報をもって生まれてくる方は確かに私に連なる人物であると考えます。最初の大学時代の同期に養子で実の両親を知らないという人物がいましたが、自分から前が途切れている感じがしてなんとも言えない、といったことを言っていました。私のDNAを受けついで生まれてくる方にこのような寂しい感覚を持ってもらいたくはなく、しっかりと幸福を追い求めていただきたく思います。従って、私と実際に会い、言葉や文章を交わしてどのような人間であると感じたかは、適切な折にどうぞ包み隠さずお話しください。また、私からの提供で無事出生に至った折には、出生後も依頼者様の希望によって連絡のつくようにいたしたいと思います。お子様本人と連絡を取る場合、成人されて以降になります。お子様が成人に達した時に私が生存していれば必ず連絡をとれるように、フリーメールではなくしっかりとした連絡先お教えすることを想定しています。

 お子様が成人した際、連絡先を利用するか、しないかは成人したお子様自身にお決めいただきたいと思います。面会を希望されるのであれば、お目にかかりたいと思います。この点については、ドナーとどのような関係を基本的にはケースバイケースになるかと思います。欧米のような情報公開について法的にも、精子バンクからもトラブルの起こらないシステムが整っており、精子提供への理解や知る権利とプライバシーのしっかりとした線引きがある社会での対応とは異なってしまうということをお許し下さい。いずれにせよ、成人したお子様に私と接点をもつ機会を確保するためにもしも連絡先の変更がある場合は必ずお教えしますし、通知を受け取れるようにしていただければと思います。

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